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「エンタメの世界に行きたい!」雑誌カルチャーにどっぷり浸かった少年時代
<エンタメ解体新書>
まずは子供時代のお話から伺いたいのですが、お生まれや育った場所はどちらですか?
<青木宏行さん>
生まれは岩手県盛岡市で、実家は水沢です。今は奥州市ですね。そう、大谷翔平選手と同じ奥州市なんですよ(笑)
水沢江刺駅に帰ると大谷選手のコーナーがあって応援シールをもらえるので、スマホに貼ったりしています。大学に入るまで、ずっと岩手で暮らしていました。
<エンタメ解体新書>
おお!大谷選手と同郷なんですね!どのような少年時代を過ごされたのですか?
<青木宏行さん>
まさに「漫画と雑誌オタク」な少年時代でした。
1961年生まれなのですが、1968年に『週刊少年ジャンプ』が創刊したんです。小4くらいの時には読んでいた記憶があります。私たちの世代には特に多いと思うんですけど、私もどっぷり漫画に浸かって少年時代を過ごした世代です。ジャンプ、マガジン、サンデー、チャンピオン、ビッグコミックなど毎週ほとんどの漫画誌を買っていました。発売日が待ち遠しかったですね。
<エンタメ解体新書>
そうですよね、私も発売日が楽しみだった子供時代でしたので、気持ちがよくわかります!学生時代、雑誌はお読みになられていましたか?
<青木宏行さん>
実家の近くに割りと大きい書店が3つあって、その3書店に毎日我が家のように(笑)入り浸って漫画や雑誌を読んでいました。漫画誌以外も図鑑みたいなものから、『明星』や『平凡』といった芸能誌までよく買って読んでいましたね。漫画誌は早く読みたくて、わざわざ駅の売店まで買いに行ったりしていました。田舎なので、駅の売店の方が書店より先に販売してたんです。まだ東北新幹線ができていない時代の話です(笑)
あとそうだ、『POPEYE(ポパイ)』ですね。高1の時に創刊号を読んだのが衝撃的で!カリフォルニア特集だったんですけど、スケボーとかファッションとか、西海岸の空気感に完全に魅せられてしまいました。毎号、『POPEYE』も楽しみでしたね。
<エンタメ解体新書>
では、早いうちからメディアのお仕事に就きたいという想いは強かったんですか?
<青木宏行さん>
そうですね、雑誌やテレビ、映画が好きだったのでなんとなく「エンタメの世界に行きたい!」という想いはありました。本当は映像の世界に行きたかったんですけどね。
エンターテインメント系のメディアの仕事に行きたいなというのは間違いなくあって、大学は東京の慶應義塾大学に進学することになります。

「ぴあフィルムフェスティバル」に応募した8ミリ映画!映画作りに没頭した大学時代から、光文社へ
<エンタメ解体新書>
メディアの世界への憧れを抱きながら進学されるわけですが、慶應義塾大学時代はどのようにお過ごしになられたのでしょうか?
<青木宏行さん>
映画を作るサークルに入りました。当時は8ミリ映画ですね。映画が好きということもありましたが、そこから雑誌社やテレビ局に入社する先輩たちも多かったので、マスコミに入りたいという気持ちが強くなりました。
バイトでお金を貯めて、自分で脚本を書き、8ミリ映画を作って『ぴあ』に応募したりしていました。
<エンタメ解体新書>
『ぴあ』に応募!結果はどうでしたか?
<青木宏行さん>
全然、箸にも棒にも引っかからなかったです(笑)
でも、30分超の長編や、5分程度の短編作品とか、何本も頑張って作っていましたね。青春です(笑)
<エンタメ解体新書>
本当に映画作りに没頭されていたのですね。
<青木宏行さん>
あと、高校時代に影響を受けた先輩がいて、その方の繋がりで自主映画製作のADを経験させてもらったこともありました。大林宣彦監督の映画が大好きでした。
そうやって、映像に関わるうちに、ますます「エンタメを作るメディアに入りたい」という思いが強くなっていくんですけど、テレビ局は全然ダメで。
<エンタメ解体新書>
そこから、出版社である「光文社」へ進まれることになったのですね。
<青木宏行さん>
はい。当時『週刊宝石』ができたばかりで勢いがありましたし、『女性自身』などの芸能メディアも充実していて。光文社はそういう雑誌メディアが強いと思い、受けさせてもらって、無事に入社することができました。
発行部数100万部超えの世界へ。バブルの熱狂と『FLASH』の裏側
<エンタメ解体新書>
光文社に入社され、最初はどのようなお仕事を志望されていたのですか?
<青木宏行さん>
『女性自身』や『週刊宝石』のような、週刊誌的な記事の部署に行きたいと思っていましたが、配属されたのは業務部という部署でした。
<エンタメ解体新書>
最初は編集部ではなかったのですね!
<青木宏行さん>
はい。印刷所や製本所と編集部の間に立って印刷や進行管理、予算を作る仕事を4年やりました。そして4年目に『FLASH』が創刊して異動することになり、編集の仕事に携わることになるのですが、業務部で印刷や製本、予算の管理をする仕事を経験したことがとても活きました。
<エンタメ解体新書>
いよいよ憧れの雑誌編集へ!当時は写真週刊誌の全盛期ですよね?
<青木宏行さん>
そうでしたね、日本全体がバブルでしたが、写真週刊誌の勢いも凄かった。
『FLASH』ができた直後の12月に、あの「たけし事件」が起きたんです。大塚警察署にたけしさんが移送される様子を見届けたのは強く記憶に残っています(笑)
ただ、あの事件による写真週刊誌へのバッシングも凄くて…せっかく雑誌の仕事が出来るようになったのに、最初は「写真週刊誌」の名刺を出すだけで取材NGになるような厳しい時代に直面しました。
<エンタメ解体新書>
夢の世界の始まりは、逆境からのスタートだったと。
<青木宏行さん>
2〜3年経ってようやく『FLASH』の売上も上がってきて、合併号で100万部いくようになりました。時代はバブル頂点だったので、景気もすごく良かったですね。
当時はスマホやネットメディアなんてものはないので、『FLASH』で取り上げるとテレビがこぞって話題にしてくれました。とにかく影響力がすごくて、怖さもありましたね。

前編はここまで!
憧れのメディア業界へ飛び込み、激動の写真週刊誌の最前線に立つことになった青木さんですが、ここからさらにスケールの大きな熱狂と伝説の取材エピソードが飛び出します!
続く中編では
ソウル五輪からオウム真理教まで…『FLASH』ニュース班時代のエピソード、巨匠・篠山紀信さんとの運命的な出会いなど、バブル期の凄まじい熱量と裏話をたっぷりと語っていただきました!
